人狼における抑止力という確率表現について
人狼における抑止力という確率表現について。
この表現の誤用機会にはうんざりするという話は過去に何度も指摘してきた。
では初めて表現した人の意図について考える。
人狼にとっては占い師が生存し続けると、勝率がどんどん低下していき詰みになる展開と編成がある。
狩人の生存確率も初日は10割でどんどん低下していく。
まずは何事も分かりやすい例から考える。
呪殺で占い師確定するとする。狩人は占い師護衛。
占い師生存だとある日の時点で詰みになるので、その日よりも前に人狼は占い襲撃を選択する。
GJ出た時点で詰みになるが、占い襲撃の選択は絶対の「最善手」なのは分かるだろう。
またそれまで絶対に非狩を襲撃してはいけない。狩人抜いて占い襲撃を成功する以外の道は存在しないのだから。
狼の占い襲撃は確定しているのだから、抑止力(確率上の表現)は存在しない。
狩人の生存確率と人狼の選択肢の中に存在するものを表現すると、抑止力と表現される。
人狼にとって、初日に占い師が死ぬか、二日目に占い師が死ぬか、はあまり変わらない。
序盤の占い襲撃死は勝率上必須ではないが、どんどん必須になる割合は上昇していく。
一方で、狩人の生存確率は日々単調に減少していく。
占い死亡の必須割合の増加と狩人の生存確率の減少が交わる時……。
あと20人村での7人時点での狩人生存確率と、11人村での7人時点での狩人生存確率は異なる。
私の伝えたかった異議というのは、手数が少ないのに確白を吊るなという主張。
表現は本質ではなくて、意図が本質でしたね。
私は(ゲームに勝つために)占い師を襲撃するので、抑止力もくそもないのですが。
序盤だけ狩人の能力そのものをいじったり、いろいろいじれば変わりそうだけど。
一戦一戦の結果に拘る人かわいそう(勝率6割での勝ち>>勝率8割での負け、な人のこと)。宗教にはまりすぎでは
人狼中における判断はすべて可能性でしか認識できない。可能性ではなくて全て100%だと認識するのは宗教だし宗教かわいそう。